ふみ出せばその一足が道となる。しかしその道は既にあったのです。

清沢哲夫(暁烏哲夫)という真宗大谷派のお坊さんがおられました。明治の名僧・清沢満之(大谷大学初代学長)の孫にあたり、ご自身も大谷大学で教鞭をとっておられた方です。この清沢哲夫先生の著書『無常断章』に「道」と題された一篇があります。

  この道を行けば どうなるものかと 危ぶむなかれ

  危ぶめば 道はなし

  ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である

  わからなくても 歩いていけ 行けば わかるよ

どこかで聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。プロレスが好きな人はなおさらのことでしょう。そう、アントニオ猪木さんが引退式で詠んだ詩です。実はあの詩は、この清沢先生の「道」が元となっているのです。聞けば不思議と元気が出てくるような、背中を押してくれるような、そんな魅力あふれる力強い詩です。

 人によってさまざまな味わいがあると思いますが、私自身はいつも、善導大師がお示しくださった「二河白道の譬え」が思いおこされるのです。次のような内容です。

旅人が西に向っていると、眼前に火の河と水の河が現れます。二つの河は南北に果てしなく続いており、西岸までは百歩ほどの距離があります。西岸に至るには、二つの河の間にある幅15㎝ほどしかない一本の白い道を行かなければなりません。そこに盗賊や悪獣の群れが現れ、旅人が一人悩んでいるのを見て襲い殺そうとします。旅人は「戻れば盗賊悪獣に襲われ、白道を進めば河に落ちるに違いない。戻っても止まっても進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのならこの白道を進もう。既に道があるのだから」と思いました。そのとき、背後から「決断してこの道を行きなさい。決して死ぬことはありません」と釈尊の勧め励ます声がします。そして西岸からは「迷わず今すぐ来なさい。私が必ず護ります」と阿弥陀仏の喚ぶ声がします。これによって旅人はためらわずに白道を進み、ついに西岸に到達することができました。

これは、仏道を歩む人間の姿を譬えたものです。人間がさとり(西岸)を求めて歩み出すとき、そこには行く手を遮るほどの煩悩(水火の河)が現れます。しかしそれであっても、釈尊の教えに励まされ、そして阿弥陀仏の本願の喚び声に護られているからこそ、一筋の真実の白道を歩んでいくことができるのです。

 私たちが仏道を歩むとき、ふみ出す決断をし、実際に歩んでいくのは私たち自身に他なりません。しかしそれは「危ぶむな」「必ず護る」という仏の声があって初めて道を歩むことができるのです。そしてその真実の道は私がつくったものではなく、最初から既に開かれていた道であったのです。

(脇屋尚道)

死後の問題と六道輪廻

人類の歴史において「死んだらどうなるのか」という問題は、洋の東西を問わず、はるか昔から様々に考えられてきたことであります。「死んだら天国に行き、安らかに眠る」「死んだらそれで終わりで、完全な無になる」など、実に様々な考え方があります。それでは、仏教においては死後の問題をどのように考えるのでしょうか。

仏教においては、あらゆる生きものは生きている間に様々な行為(業ごう)を行い、その行為の結果として、死後に別の世界に生まれ変わると考えます。この別の世界というのは六種類あり、この中のどれかに生まれ変わることを六道輪廻といいます。

  • 地獄・・・地下にある牢獄の意。苦しみのきわまった世界。
  • 餓鬼・・・常に飢餓に悩まされる世界。
  • 畜生・・・人にたくわえ養われて生きているものの意。鳥・獣・虫・魚としての生存状態。
  • 阿修羅・・・絶えず対立し闘争する者としての生存状態。
  • 人間
  • 天・・・優れた楽を受ける喜悦の世界。

(本願寺出版社『浄土真宗聖典』より)

ですから、今現在人間として生きている私たちも、過去の世界において様々な行為(ごう業)を行い、その結果として人間として生まれ変わった存在であるということになります。そしてまた人間として行為(ごう業)を積み重ね、死後には次の世界に生まれ変わっていくというわけです。

このように、仏教においては「あの世」という考え方は本来、ありません。死後に趣く世界というのはろくどう六道のどこかであり、この先のはるか未来においても、一つの世界にずっと留まり続けるということは考えられていないのです。

私たちの宗派、浄土真宗においては、阿弥陀如来さまのお慈悲をいただき、今の命を終えた後は、阿弥陀如来さまの極楽浄土という世界に往生させていただくと考えます。阿弥陀如来さまとは、はるか昔からろくどう六道りんね輪廻から抜け出せず苦しみ続けている私たちを何とか救いたいと考え、ろくどう六道りんね輪廻を超えた世界である極楽浄土をおつくりになられた如来さまであります。

そして、私たちが浄土真宗のみ教えをこうして味わわせていただけるのは、人間に生まれることができたからであります。妙好人の源左さんは、山仕事をしている時に狐に出会い、「ものを云つても分らんだらあけつど、後の世にや人間に生れ来いよ」と言い、お念仏を申したそうです。一緒に仏法を喜ばせていただこうと考えたのでありましょう。

私たちは幸いにも、人間として生まれることができました。今現在、私たちが仏法聴聞させていただいているということがどれだけ稀有なことか、有り難いことであるか、改めて考えてみることも、大切なことなのではないでしょうか。

大野光沢



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