正信偈念仏和讃をとなえるということ

人間はことの本義を忘れていく存在です。日常生活のなかにある慣習のようなことについては、あまりにもあたりまえすぎて、そもそもの意味合いを考え直すことをしません。

それは真宗の風儀においても同じことがいえます。

日課のようにおこなう仏前での勤行には、正信偈を読誦する場合が多いと思います。そして、その正信偈には、念仏と和讃をあわせてとなえることが一般的でしょう。

このような説明をしますと、そのようにしていない方々からは異論・反論が出されるかもしれません。なにも正信偈に限らず、讃仏偈や重誓偈、あるいは阿弥陀経でもいいのではないかと。

しかし、長い時間を経るなかでつちかわれてきた真宗の風儀では、やはり正信偈に念仏と和讃をあわせて読誦することにとても大事な意味をみいだしていました。

かくいう私自身も、正信偈を読誦することの意味合いを以前から考えていたわけではありません。

たまたま、しかもなかば義務的に読む機会が与えられた『考信録』という江戸時代中頃の本にこうしたことが書かれていて、私のこころに留められたに過ぎません。

正信偈は宗祖親鸞聖人の主著『教行信証』の一部分です。聖人が関東滞留中から書きはじめられ、晩年にいたるまで改訂を加えられた畢生の大著です。その一部分だけでも日課として読むことは、いかにも真宗の勤行としてふさわしいものです。

ところが聖人渾身の力作であっても、無智の輩、つまり私たちには読み上げる語句の意味がすんなりとは理解できません。そこで意を解した和讃があわせ読まれるようになったのです。和讃もまた聖人の述作です。

これでめでたく正信偈を読誦する意味がわかりましたね、となるのでしたら、わざわざここにこの話を出してはきません。

一番大事な主点は、正信偈や和讃にあるのではなく、またそれをいかに上手に読み上げるのかということではなく、念仏にあるのだということが『考信録』には記されているのです。

念仏は正信偈の後、和讃に挟んでとなえるものという感覚が私にはあり、念仏こそが主であるなどとは微塵も気が付いていませんでした。

正信偈と和讃は、ともに念仏伝来の先徳をたたえ、阿弥陀仏への帰依信順をすすめるための言葉です。それを読み、聞き入れた上で、口から出てくる称名念仏こそが他ならぬ正業であるという指摘は、そういわれればなるほどそうなのかという思いがこみ上げてきて、新しく気づかされる機会となりました。

思わずひざを打つ瞬間でした。

華園学院教授
大原観誠

神さまとの付き合い方

日本は八百万の神々が住まう国です。ちょっとご近所を散歩しただけで、鳥居やお社、神さまの住まうお宅がそこかしこ。それだけではありません。古木に神さま、お米に神さま、針にも神さま。日本人は神さまと共同生活をして、時にお祭りし、ある時は祈願、ある時は感謝、ある時は服従してきました。

しかし、それは見返りを求めてのこと。神さまをお祭りし、五円玉を放り投げて、願いごとを叶えてもらいます。五円玉で働かされる神さまは多忙です。叶えてくれない神さまは、ご利益なしの役立たず。辛い職業です。

私たちは、自分たちの都合によって神さまを利用してきました。神さまと私たちの共同生活は、見返りを求める世界で成り立ってきたのです。

さて、そんな神さまとの付き合い方。浄土真宗の門信徒にとっては、これがなかなか一筋縄ではいかないのです。なぜならば、親鸞聖人がこんなことをおっしゃっているからです。

かなしきなや道俗の 良時・吉日えらばしめ

天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす

『正像末和讃』悲嘆述懐讃

悲しい私たちの姿がありますね。神さまをありがたやと崇めつつ、自分の都合を押し付けて、見返りを求めて、お守りを買い、占いをする。願いが叶わなければ役立たず。このような神さまとの付き合い方は世俗の行いですよ、と。

親鸞聖人は、自分の願いが叶わないからといって、神さまなんて役立たず、嘘っぱちで捨ててしまえ、なんて言いません。

天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり

これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり

『浄土和讃』現世利益讃 

親鸞聖人は、見返りを求めお祭りしなくても、神さまは「南無阿弥陀仏」のお念仏の世界でその人を護るとおっしゃっているのです。

神さまは、大雨の時も日照りの時も、豊作の時も凶作の時も、ただ静かに私たちを見守っています。私たちの自分勝手な願いを聞くことはありません。見返りを求めることもありません。祟らず、罰も与えません。ただ静かに私たちと共同生活をしてくれています。

静かに佇む神さまは、私たちに多くのことを教えてくれます。歴史ある深い山や森や木々が多くの動植物を育てていること。水流が私たちのいのちの源になっていること。この大地を守り伝えてきた多くの人々がいたこと。無量なる恵み、無量なる願い、無量なるいのちのつながりによって、いま私たちのいのちが育まれていることを教えてくれるのです。

無量なるいのち、願い。それを仏教では「阿弥陀(無量寿)」と名付けます。私たちのいのちを根底から支える「阿弥陀(無量寿)」のいのちなかで、私たちは神さまに護られているのです。

自分勝手な願いをし、見返りを求める世界に生きる私たちに、ただ静かに佇むという仕方で、「阿弥陀(無量寿)」といういのちの根底を教えてくれているのです。

 

 華園学院教授  北岑大至(福井県 浄信寺)



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