前期高齢者の仲間入りをしてから三年ほど経ちます。老いの自覚はあまりありませんでしたが、先日ある仏教関係の書物に目を通していると、仙涯和尚の作と言われる「老人六歌仙」が引用されており、目がとまりました。八十七歳まで生きた禅僧が冷徹な目で老いの特性をとらえているのです。

「皺がよる、ホクロができる、背は屈む、頭は禿げる、ひげが白くなる、歯が抜ける、目はかすむ、耳は遠くなる、足腰弱くなり、物覚えが悪くなる、くどくどなる、・・・・・」

ここまで読んできて、実際の年齢よりはるかに若いと思っていましたが、否定しがたい老いの兆しに気づかされ、まさに「老いるショック」でありました。

経典には「老いと病と死を見て世の無常を悟り」とあり、必ず自分の老いに向き合わねばならないことは知っていましたが、意識的に避けていたのでしょう。

この仙涯和尚の言葉の後に次のような言葉が添えてあります。

「老いは人間にとって必然であるが、また必要でもある。老いが必要なのは、なによりもよき死のためである」と。

「よき死」とは臨終における死に様ではありません。人生の最終章をどのように過ごすのかということであり、視点を変えれば「いかに年をとるか」ということでありましょう。

思えば人は自分の中に二人の「私」が棲んでいると思います。日々の生活を繰り返している自分と、それを冷静に眺めるもう一人の自分です。それは、批判をしたり、反省をさせたり、あるいは励ましたりする「私」です。年をとることは、実はこの二人の「私」の間での葛藤が激しくなることではないでしょうか。その葛藤によって生まれる境地を岡本かの子女史は次のように歌っています。

年々にわが悲しみは深くして いよいよ華やぐいのちなりけり

老いることの不安や悲哀を抱えながらも、その奥底からみずみずしい命の躍動へと転じる世界があることを教えてくれています。

このようなエネルギーがどこから生じているのか知るよしもありませんが、自分に引き当ててみればそのエネルギーは念仏の智慧でしかあり得ないのです。

故に、私にとって「いかに年をとるか」は、どれだけ素直に仏の教えを聞き続けられるかにかかっているのであります。

三木秀海