日本は八百万の神々が住まう国です。ちょっとご近所を散歩しただけで、鳥居やお社、神さまの住まうお宅がそこかしこ。それだけではありません。古木に神さま、お米に神さま、針にも神さま。日本人は神さまと共同生活をして、時にお祭りし、ある時は祈願、ある時は感謝、ある時は服従してきました。

しかし、それは見返りを求めてのこと。神さまをお祭りし、五円玉を放り投げて、願いごとを叶えてもらいます。五円玉で働かされる神さまは多忙です。叶えてくれない神さまは、ご利益なしの役立たず。辛い職業です。

私たちは、自分たちの都合によって神さまを利用してきました。神さまと私たちの共同生活は、見返りを求める世界で成り立ってきたのです。

 

さて、そんな神さまとの付き合い方。浄土真宗の門信徒にとっては、これがなかなか一筋縄ではいかないのです。なぜならば、親鸞聖人がこんなことをおっしゃっているからです。

かなしきなや道俗の 良時・吉日えらばしめ

    天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす

『正像末和讃』悲嘆述懐讃

悲しい私たちの姿がありますね。神さまをありがたやと崇めつつ、自分の都合を押し付けて、見返りを求めて、お守りを買い、占いをする。願いが叶わなければ役立たず。このような神さまとの付き合い方は世俗の行いですよ、と。

 

親鸞聖人は、自分の願いが叶わないからといって、神さまなんて役立たず、嘘っぱちで捨ててしまえ、なんて言いません。

天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり

    これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり

              『浄土和讃』現世利益讃

 

親鸞聖人は、見返りを求めお祭りしなくても、神さまは「南無阿弥陀仏」のお念仏の世界でその人を護るとおっしゃっているのです。

 

神さまは、大雨の時も日照りの時も、豊作の時も凶作の時も、ただ静かに私たちを見守っています。私たちの自分勝手な願いを聞くことはありません。見返りを求めることもありません。祟らず、罰も与えません。ただ静かに私たちと共同生活をしてくれています。

静かに佇む神さまは、私たちに多くのことを教えてくれます。歴史ある深い山や森や木々が多くの動植物を育てていること。水流が私たちのいのちの源になっていること。この大地を守り伝えてきた多くの人々がいたこと。無量なる恵み、無量なる願い、無量なるいのちのつながりによって、いま私たちのいのちが育まれていることを教えてくれるのです。

無量なるいのち、願い。それを仏教では「阿弥陀(無量寿)」と名付けます。私たちのいのちを根底から支える「阿弥陀(無量寿)」のいのちなかで、私たちは神さまに護られているのです。

自分勝手な願いをし、見返りを求める世界に生きる私たちに、ただ静かに佇むという仕方で、「阿弥陀(無量寿)」といういのちの根底を教えてくれているのです。

 

 華園学院教授  北岑大至(福井県 浄信寺)