興正寺法話一覧

興正寺の法話一覧です。

智慧ある人生

仏教は智慧の宗教といわれています。智慧とは“本当のこと”に気付く心です。“本当のこと”とは、偽りではなく、真実であることです。

例えば、親が子を思う心は、まさに本当のことです。しかし子どもは親の心になかなか気付かないものです。だから“親の心子知らず”という言葉があるのです。
また、世間では、先祖の祟りとか、墓の向きが悪いなどということもありますが、先祖とは親の集まりですから、子孫である子どもに祟ったり、不幸を招く訳がありません。これも本当のことに気付かない心の表れと言えます。

仏教では身勝手な自分の都合で物事を考えてしまう人間を指して“凡夫”と言います。その凡夫である私たちに、いかに自分が身勝手な心を持つ存在であるかということを気付かせ、正しい考え方に導くのが仏教の教えです。

現代では「個人が自由に生きる」という考え方が主流になっています。自由ということ自体はいい事ではありますが、それが勝手気ままに生きていいと捉えているように思えます。つまり、家のことも親のことも、ましては先祖のことも考えずに、ただ自分のことだけを考えて生きたらいいのだとの思い違いを生んでいるのではないでしょうか。

仏教では生まれてきた者がさけては通れない道が三つあると考えでおります。それは、ろう老・びょう病・し死です。それにしょう生をつけて、生老病死といい、これをし四く苦といってこの苦しみは、すべての人が自らの人生で体験していかなければなりません。年は取りたくなくても、老いていく身はどうすることもできません。辛いことですが病気になるのも避けられません。このような人生をはたして「個人が自由に生きる」という考え方で解決できるでしょうか。

誰もが多くの人々のお世話にならなければ老病の人生を歩むことはできません。
個人が自由に生きるのではなく、みんなで助け合い、支え合いながら生きていくという考え方にならなければ、人間が安心して老病の人生を生きることはできないでしょう。
もう少しゆったりとした心を持ち、縁ある人々との関係を大事にすることが、智慧ある人生を歩むことになるのです。

華園学院教授
川田信五(香川県 大信寺)

老いるショック

前期高齢者の仲間入りをしてから三年ほど経ちます。老いの自覚はあまりありませんでしたが、先日ある仏教関係の書物に目を通していると、仙涯和尚の作と言われる「老人六歌仙」が引用されており、目がとまりました。八十七歳まで生きた禅僧が冷徹な目で老いの特性をとらえているのです。

「皺がよる、ホクロができる、背は屈む、頭は禿げる、ひげが白くなる、歯が抜ける、目はかすむ、耳は遠くなる、足腰弱くなり、物覚えが悪くなる、くどくどなる、・・・・・」

ここまで読んできて、実際の年齢よりはるかに若いと思っていましたが、否定しがたい老いの兆しに気づかされ、まさに「老いるショック」でありました。

経典には「老いと病と死を見て世の無常を悟り」とあり、必ず自分の老いに向き合わねばならないことは知っていましたが、意識的に避けていたのでしょう。

この仙涯和尚の言葉の後に次のような言葉が添えてあります。

「老いは人間にとって必然であるが、また必要でもある。老いが必要なのは、なによりもよき死のためである」と。

「よき死」とは臨終における死に様ではありません。人生の最終章をどのように過ごすのかということであり、視点を変えれば「いかに年をとるか」ということでありましょう。

思えば人は自分の中に二人の「私」が棲んでいると思います。日々の生活を繰り返している自分と、それを冷静に眺めるもう一人の自分です。それは、批判をしたり、反省をさせたり、あるいは励ましたりする「私」です。年をとることは、実はこの二人の「私」の間での葛藤が激しくなることではないでしょうか。その葛藤によって生まれる境地を岡本かの子女史は次のように歌っています。

年々にわが悲しみは深くして いよいよ華やぐいのちなりけり

老いることの不安や悲哀を抱えながらも、その奥底からみずみずしい命の躍動へと転じる世界があることを教えてくれています。

このようなエネルギーがどこから生じているのか知るよしもありませんが、自分に引き当ててみればそのエネルギーは念仏の智慧でしかあり得ないのです。

故に、私にとって「いかに年をとるか」は、どれだけ素直に仏の教えを聞き続けられるかにかかっているのであります。

三木秀海



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